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事業実績

患者の声

不安と絶望が感謝から希望へ

平成15年9月1日

最初に
僕がこの病気にかかり一番励みになったのは、同じ病気の人で既に良くなっている人の話を聞き色々な細かい共通点が有ると僕は希望が持てました。今から話す僕の経験談で励みになってくれる方が1人でも居られたら幸いです。

 

自分は、この病気と診断を受けるまでは当たり前のようにタバコを吹かし、仕事場や色々な環境であの煙の中に入り浸っていました。

 

そして自覚症状が出始めたのは丁度1年前だったが今考えたら3年半前からおかしかった。12年(冬)友達に誘われスノーボードを始める事にした。レンタルで練習もしないで10 万円程のお金を使いセットを購入した。スキーはやった事有ったし面白かったのでスノーボードも面白いだろうと思い衝動買いしてしまった。そして滑りに行ったのですが、想像していたより難しく立っては倒れ、また立っては倒れを繰り返した。2~3回程倒れた時に両膝下に筋肉痛のような、痛みが現れる。初めてだし運動も最近してないので、これが普通だと、思っていた。そしてまた倒れ、痛くて痛みが治まるまでは立てなくなってきた。それでも痛みをこらえながらそれを繰り返しやっと下までたどり着く。もう帰りたかった が、フリーパスだしせっかくフルセット揃えたのに 1 回だけって言うのは、どうかと思い、またリフトに乗った。2 周目はさすがに少し滑れるようになって来たのだが、やはり膝下が 痛く、痛いから滑っている途中でも自ら倒れ痛みが治まるのを待った。結局その日は3周 しか出来なかった。

 

13年の(冬)シーズンがやって来た。結果以前より 5 週位多く滑れたが決して楽しいと言える状況では無かった。この年は何度も友達に誘われたが結局 3 回位しか行かなかった。結構集中的に行ったのに足の痛みは治まらず周りの友達はそんなに痛いのはおかしいのはシューズが有ってないんじゃないって言われたが僕は何と無くそんな気はしなかった。

 

それから約9ヶ月後、足全体に痒みが出てきた。薬局に行きステロイド入りの塗り薬を購入し塗るのだが、一向に良くならず痒みも全身に広がり足が浮腫んできたので、近くの済生会病院の皮膚科で見てもらうことにした。原因不明と言われ塗り薬と痒み止めの飲み薬(アレジオン)を貰った2週間後薬が切れた為また診察に行ったがやはり原因不明と言う事で同じように薬を貰って帰った。母の勧めで近くの皮膚科に診察に行くだがやはり同じ結果で原因不明との診断結果だった。同じような塗り薬にやはりアレジオンを貰い帰った。取り敢えず薬を飲んでいれば痒みは取れたので2週間に毎にアレジオンだけを貰う日々を繰り返す。仕事が終ると何時も行く友達の家に歩いて行く(約1キロ)のだが、最初は何ともなかった1キロ程の距離が日々重ねていく毎に足が重く痛い症状が出始めた。アレジオンを服用しているので薬の副作用かと思い、薬を貰いに行っている皮膚科の先生にその事を相談しに行った。
先生の答えは足の痛みはアレジオンと関係無いと言う事だった。しかし、先生はそう言ったが僕は絶対薬のせいだと思っていた。そこで今までに味わった事の無い病気への不安と言う物が頭に過ぎる。アレジオンを止めたら痒みが出るし飲み続けてたら足の痛みは増すしどうしたら良いものか解からないまま、不安を抱きつつ日々の生活を続けた。しかし、やはり痛みは増していき1キロを歩く事が困難となり自転車を購入した。そして、やはりアレジオンの事が気になり少し大きな病院でその事を相談しついでに血液を見てもらうが異常は見られず病院を後にした。

 

14 年(冬)誘われたが、滑れる状態ではなかった。その時は良く歩いて400M位でもう歩けなくなっていた。このころから寝ようとしても左足が冷たく眠れなくなって来る。

 

そして今から約1年前 14年(夏)足の痒みとか痛みとかを友達や家族に色々相談してみた、そして友達から海水って良いらしいよと聞き、一度試してみたいなーと思っていた。7月29日友達が誕生日の日、毎年恒例になっているらしい夜の海水浴に参加した。

 

そして、それから3日程経った。
仕事(中古車販売業)で車を洗車している時に一旦靴を脱ぎ車内を清掃し靴を履いた時左足親指の右先端辺りに激痛が走る。靴を履いてしまえば痛みはその時は止まっていた。しかし、その痛みが有るまま1週間位した。夜友達と居酒屋で食事をして車まで後100M位って所で普通には歩けなくなってしまった。左足を引きずるように歩いていると友達に足痛いのと聞かれたが取り敢えず強がってガムがくっついたみたいでとか言って強がっていた。

 

それから徐々に痛みが激しくなっていく1週間位したら、ほんのチョット触れただけで激しく痛むようになり僕はこの時から靴どころか靴下も履けなくなりサンダルで歩いていた。

 

それから更に1週間位経過し、もう歩くと200M位で両足の四肢(特に左足の膝から下)が痛いし指も痛くなり、精神的にもかなり参っていた。取り敢えず自分ではどうする事も出来ないと判断し余り歩けないというのもあり近くの小さな診療所で見て貰う事にした。診察結果は巻き爪で深爪と言う事だった。そして、その状態で海に行った為、バイ菌が入り中で膿んでいると言う事だった。ちょっと痛い思いしないといけないね、と言われ麻酔の注射って痛いんだろうなーと思いながらビクビクしながら待っていた。そして僕の名前が呼ばれた、横になってと言われて横になった僕は麻酔するものだと思い心の準備をしていたがとんでもない言葉を浴びせられた。麻酔は今打ったら後が痛いから麻酔無しでやるよって言われた。その時一瞬逃げようかと思ったけどどこに行っても同じだと思い我慢する事にした。先生はハサミのような物やとがった棒みたいな物をカチャカチャと用意しだし、それじゃーやるよと言われ気合を入れた先生が足の親指の根元をグッと強く握りハサミをグリグリと爪と肉の間に入れていくのが解かった。痛い!と叫んだ今まで味わった事の無い痛みだった。
カチャカチャ音がする度にドキドキしていた。結局 20 分程かかったが何とか親指右先端部 分の爪とその周りの膿んでいる所の上の皮膚をうまく取れたようで時間が経つにつれて痛 みも楽になって来た。そしてその病院に4日通院して巻き爪の治療が終った。しかし痛みはある程度、取れたが僕は今だに、この痛みはアレジオンのせいじゃないかと思っていた。

 

それから1週間程傷の痛みが続き、それから次は左足親指の先端、左側面部分に違和感が出てくる。

 

巻き爪の治療から約一月が経過した、左側面先端の痛みが徐々に強くなる、普通ならば病院に行く所なのでしょうが僕の頭の中には以前の麻酔しないで受けた治療がまだ頭から離れず、怖くて行けなかった。それから、自分で何とかできないかと思い爪切りなどを使い、爪の下に膿んでいる膿みを出そうと試みるが、やはり上手く行くものではなく痛みは次第に強くなる、そんなこんな、しながらどの位我慢しただろうか?今回もやはり限界まで我慢し病院に行く事を決心する。

 

そして14年11月今度は近くの救急病院(佐田病院)に行く事にする。ドキドキする事1時間僕の順番が回ってきた、そして診断はやはり巻き爪による炎症と言う事でした。明日巻いている所を永久に生えてこない手術しますかと聞かれ取り敢えず今痛いので今どうにか出来ませんかと聞いてみた。すると先生は応急的にする事は出来るけど半月位するとまた再発する可能性が有りますよと、言われた僕は応急的で良いので今して下さいと御願いする。巻き爪の治療は麻酔無しでやるんですか?と先生に聞いてみた、すると、麻酔無しでは痛くて出来ないよ勿論するよと、言われた、ここまで我慢した意味がまったくなかった。確かに麻酔は痛かったがその後の治療が楽だった。1週間ほど通院が必要と言う事で通う事に

 

翌日朝抗生物質の点滴と足の消毒をする事に、消毒は予想通りの痛みでかなりしみました。5日間ほど通院し病院でやる事は後は消毒だけとなった。めんどくさがりな自分はここから自分で処置をする、まずは水道水で前日の軟膏を洗い流しイソジンで消毒して病院で頂いた軟膏(ゲンタシン軟膏)を塗りガーゼをして包帯を巻いた。こういう風に毎日を過ごしていた、ひと月程経つと左足親指の先端右部分の傷は塞がった。しかし左はまだ良くならない。そして、更にひと月位経つと左側面が良くならない以上に少しずつでは有るが痛みが出てきた。
そして今度は左足の小指に黒く血の塊のような物が出てくる。黒くなるのは初めてでその時は何の事やら解からず少し不安でした。そして更に1週間が過ぎた日、小指の色が少し悪くなってきた、そして黒くなった部分が親指の痛みとは微妙に違うズンズンと言った感じの痛みで非常に強い痛みが走り出した。もうその時は家の中でただ立つだけでも痛み出す。そしてこれに更に輪をかけるように右足も左足も乾燥してアカギレを起こし切れて最悪の状況です。それから2週間後左足親指左側面の痛みは更に強いものになる。更に今度は左足の小指と同様、右足の親指の先端にも血の塊のような黒いものが出来てきた。勿論痛みも強い。そして左足小指の爪の部分を抑えると膿みのようなものが溜まっているのが解かった。この時、僕の中では、これは巻き爪のような軽い怪我では無く何かとんでもなく重い病気に掛かっているような気がして、この病気に掛かって最初の絶望感に襲われる。病院に行っても治る気がしなかった。そしてこの辺りから夜寝る時、ベットから足を下ろしもの凄く変な格好で寝ないと眠れなくなる。普通に足を伸ばして寝ると5分位したら左足が冷たくなると今まではこの位だったのだが。更に我慢してそのままにしておくと、左足親指に激痛が走るようになる。
それから2週間位経つと小指の黒い部分が取れてそこから膿みが出てきた。痛みは少し良 くなったが、少しでも何かに触れたりすると痛かった。
左足親指左側面は相変わらず痛みは増していった。
右足の親指の痛みは変わらない。

 

そしてそれから2ヶ月後左足小指の痛みは消えた。
右の親指は変わらず黒い部分がなかなか取れず痛みもそのままだった。
そして左足親指左側面部分の痛みは激痛となる。夜も足を下に下ろしても痛みが続くので 寝れない。

 

翌朝一睡も出来ずに病院(佐田病院)に行くことにする。
そして両足の事を先生に話した。最初の先生の一声は、良くここまで我慢してほっといたねーだった。そして診断は変わらず巻き爪と言う事でした。しかし今回は炎症もひどく骨にまで炎症している可能性が有ると言う事で手術しましょうと言われ一日だけ入院しましょうと言われた。そして明日の手術の為レントゲンと採血をして明日に備える28年間生きてきて入院は初めてだった為ちょっとショックだった。
こうしてここから長い入退院を繰り返す日々が始まった。

 

翌朝3月11日午前9時入院
手術用の服装に着替え8階の手術室に向かう両足共に局部麻酔を打たれ痛みはまったく感じなかった。右足親指はスムーズに行きすぐに終った。問題は左足だった。左足親指は予想以上に悪かったらしく骨にも少し炎症が見られたらしく骨をヤスリのようなもので削られた痛みは無かったがギコギコと嫌な音だった。手術は1時間半くらいで終った。両足に凄い包帯を巻かれていた。エレベーターで病室に移動中にインスタントカメラで撮った自分の足を見せて貰う事に見ても全然解からなかったそれよりも皮膚を半分に切って中の骨が見えている方が生々しく気になっていた。麻酔が効いているためその写真が本当に自分 の ものなのかと思った。その日は余り痛みも無く1日が過ぎたそして次の日の朝バイ菌を死滅させる為の抗生物質と血管を拡張させる点滴を朝と夕に打つ事にする、そして消毒の為包帯を取ると両足共に血が溢れ出した。そして消毒用のマスキン水を指に掛けられたらビックリするくらい痛かったためイテッと、足を引っ込めた。血が出てくるのを無理やり軟膏(ゲンタシン)で抑えながら塗りガーゼと包帯で保護する。消毒も朝と夕と2回行う。 昨日は1日入院の予定だったが足が予想よりも酷かった為退院は延期になった。
そして1週間(特に代わりは無いが軟膏がゲンタシンからゲーベンクリームに)経つと痛みは表面上の痛みだけにはなったのだが軟膏がなかなか取れなくて擦られて痛かったなかなか取れないし下から新しい肉が出てこないので先生は不安がっていた。僕も不安だったがそれ以上にこれは巻き爪ではないと思っていたため治る気も余りしていなかった。そして更に3日後抜糸をして取り敢えず痛みも表面上の痛みとなったし入院していても治る気しなかったので僕から先生に退院の話をもち掛けて見る事にする。すると先生は渋々退院を許可してくれたその代わり通院には毎日来るようにとの事だった。それから5日間通院して点滴と消毒をする。この時タバコはまだ吸っていた。点滴は終了となった。そしてそれから2日位通い病院から出して貰った消毒セットを使い近くの薬局でガーゼや包帯を購 入して自分でまた消毒をするようになる。

 

それから1週間なかなか両足共に傷口が良くならず相変わらず不安な日々が続いた。そして1週間程過ぎた時不安が絶望へと変わった左足に膿んでいる時の痛み(ズキズキ)と言う感じが出てきた。この時僕は一生治る気がしない気がして本当に死にたいと思った瞬間だった。それから痛みは勢い良くどんどん痛み出す。母も心配して僕が痛み苦しんで眠れないで起きていると、ふすまの隙間から心配して僕を覗いていた。僕も良い大人だし人に迷惑かけたくは無かったがツイツイ母には当たってしまっていた。こんな自分が情けなかった。

 

そう言う事も有りすぐに病院に行った。やる事は特に変わっていないがやはり皮膚が再生しない事に先生は不思議がっていた。そして2日後何時ものように病院に行くと先生が医学書を取り出し僕にこう言ったもしかすると、このバージャー病と言う病気かもしれないと言いながら先生に病気の症状を聞くと僕の症状にピッタリだった。その時僕は病名が解かっただけでも希望が持てた。そしてバージャー病かどうか検査する為に市内の病院(済生会病院)を紹介して貰う事にする。
4月25日紹介状を持って済生会に行く事に。済生会病院での担当は外科の福田先生でした。取り敢えず血管造影検査を受けなければいけないと言う事で検査の為入院する事になる。

 

5月6日検査入院するこの時の血管造影はもの凄く辛い物だった太股から管を入れるため脚をまっすぐにして検査を受けなければ駄目だったので普通の人なら痛まないのだが僕の場合は足をまっすぐにして寝る事がかなり困難だったため検査しながら先生に痛い痛いと言って痛み止めを注射で打って貰うのだがまったく聞かない僕は脂汗タラタラ流しながら1時間余りの検査をもだえながら乗り越えた。がその後も3~4時間の絶対安静が必要と言う事で辛かったが幸い管を入れたのが右の太股からだったため左足は少しベットから下に垂らし気味でも良かった。
そして、検査結果が出たようでその日の夕方福田先生に説明を受ける事にする。そして出た結果がやはりバージャー病と言うことだった。更に先生はこの病気を難病だと言った。この時僕は難病でも何でも治ってくれるなら何でもいいや、と思っていた。そして更に先生の話を聞くと今の所治療法は2つしかないと言われた。1つは交換神経切除術って言うのともう1つは、血管バイパス手術だと言われた。両方共確実に治る手術ではなく取り敢えず検査終ったので退院して母とどうするか考えた。人間誰しも体に傷を作りたくないはず、僕も同じだった。他に方法は無い物かと思い病院を変えようかとも思っていたが、考える余裕も僕にはもう無かった。取り敢えず何かして欲しいと言うのが正直な所で今は指を落としても言いから早くこのズキズキ感とヒリヒリ感をどうにかして欲しかった。母も僕の痛みを見て大分、苦しんでいたようで、それじゃあ傷の浅い交感神経切除の方の相談を次の日、福田先生のもとを尋ねた。福田先生は取り敢えず両方の交感神経ではなく左の痛みが強い方を取って見る事を勧められた選択肢はもう他には無くそうすることにする。 この日からタバコは完全に止める。

 

5月20日交感神経切除の為のこの病気で3度目の入院となった。
21日手術開始全身麻酔の為記憶なし・・・そして手術終了ボヤッと先生の手術は成功しましたよと言う声だけがかすかに聞えた。安心した僕は麻酔で足の痛みからも久しぶりに開放されそのまま深い眠りに付いた。夜中微妙な足の痛みで目が覚めた。段々と足をまっすぐ上げているのが苦痛となり看護師さんに頼んで心電図や酸素マスク等を外して貰い何時ものように足を垂らした状態で夜を明かした。朝8時先生が様子を伺いに来てくれた。そして足の指のガーゼを交換する事に痛いと思っていたが指は余り痛くなかった交感神経を取ったせいなのか麻酔の効果なのかは僕には解からなかったが少し嬉しかった。そして2日後気づいたら足を上げて数時間寝ていた事に気づいた。嬉しくてその事を先生や母に話した。しかし束の間の喜びとはまさにこの事で次の日からやはり以前と変わらない痛みが出始める。そして更に1週間後入院時と余り変わらない痛みへと変わってきた。その事を先生に正直に話すと先生はバイパス手術を勧められた。確実に治るものなら御願いする所なのだが可能性は80%という事だったので考えていた。しかもバイパスとなると太股から膝下までかなりの広範囲を切らないといけないと言う事でかなり悩んでいた。その事を母に相談し一緒に考えていた。この時の僕の精神状態は不安と絶望と苦痛の最悪の状態だった。やはり難病と言うだけに甘い物では無いと思う。そして次の日母が何時ものように面会に来てくれた。僕は何時ものように苦痛の顔をしていたが何故か母の顔は明るかった。そして痛がる僕になにやら資料を持ってきて僕に一生懸命説明する僕は母の話を半分聞き何と無く言いたい事が解かってきた。何やら母の職場の娘さんがインターネットであるホームページを見つけてくれたみたいでそれをプリントアウトして僕の所に持って来たらしい。何やらこの病気の会が有るらしく僕はそれがどうしたって感じだった。すると母は訳の解らない事を言い出した。その言葉とはバイパスはしなくて良い注射だけで治ると?僕は怒ったそんな簡単に治る病気なら難病になる訳がないと!でも母の表情は明るいものだった。正直僕はこんなに怒ったりはしていたが内心母の顔を見て少し根拠の無い希望と安心感がみなぎっていた。一先ず福田先生にはまた考えてみますと言う言葉を残して退院する事にした。

 

そして次の日母に成田さんと言う同じ病気の方の存在を聞く事になる。どうもこのホームページのバージャー病患者と家族の会の会長さんらしく僕はまだ話した事は無いが母の話を聞くと僕の痛みを自分の痛みのように親身に聞いて貰ったようだった。とは言え自分には、やはり注射だけで治ると言う事に不安があったインターネットで色々調べても何故、何も載っていないのか、第一何で済生会位の大きな病院がその治療をやってないのかが解からなかった。そして母からとんでもない言葉を言われるそれは大阪に入院すると言う事だった。突然とんでもない事を母が言った時はビックリしたし疑問は多々有ったが、取り敢えずこのけんに関しては自分には解からないし足の痛みでイライラするので母に任せる事にした。そして次の日の午前、大阪の病院で田口先生から電話が入る。そして一時して西上先生から電話が有った。そして僕も先生と少し足の症状などを電話で説明する。電話を切りベットの空きが出次第即入院する事になるこの時僕はまだどこに入院するかとか、まったく解かってなかった。そして、その場で紹介を頂いた成田さんに母は電話した。僕もその時、成田さんとお話する事になった。病状や痛みなど親身に聞いてくれて他の方の話など、してくれて希望が持てた。そして痛みもピークに差し掛かった10日後僕はまたしても切れていた。何でこんなに待たないと行けないの?もう良いよ,と母に言って後1週間待って連絡無かったらバイパスでも何でもして足を切断しても良いと言う所まで痛みは増していた。どうしてこんなに親不孝なんだろうと思っていても口からそう言う言葉が出てしまう本当に自分が情けなかった。そうこう痛みと闘いつづける事2~3日後ようや く待ちに待った病院からの電話が入った。そして・・・

 

6月19日飛行機で大阪に飛び吹田にある国立循環器病センターへと着いた。空港で歩き回ったのでこの時の痛みはこの病気に掛かって一番の痛みとなりました(1~10で例えると10)そして6階西病棟の644号に入院する事になった。そして僕の担当は医師が田中先生で看護師は藤井さんでした。そして僕が足を抑えて痛そうな顔をしている姿を見て藤井さんは座薬使おうかと言ってくれた恥ずかしさは有ったもののその時はそんなのどうでも良いくらいに痛かったため御願いした。すると1時間くらいして痛みが10から4位まで下がった。そして循環器センターとのパイプをつないでくれた田口先生が忙しい中僕の様子を見に来てくれた。二言三言では有るが話す事が出来て精神的に少し落ち着いた。そして担当の西上先生と田中先生が来てくれた。今後の治療法を検査も含め話してもらった。そして先程田中先生の説明で有った炭酸浴?と言うものを藤井さんが重そうなバケツを抱えて僕の足元に置いてくれた。中を見ると小さな気泡が無数に出来ているお湯だった。足をつける前に我慢できなかったら途中で上げて良いですからねと言われた確かに足を付けたら凄く痛そうな感じだった。そして足を付けた座薬が効いているせいなのか全然痛くなかった。そして20分が経過した。足を上げると痛みが3位にまで落ちた。その後痛みはどんどん下がっていき夕食事には1位まで下がっていた。母は福岡に帰り僕は完全に孤独となった。周りの患者は皆お爺さんばかりだったが色々話てくれて痛みを忘れられた。それから点滴(血管拡張)を打つ事に、とここまで考えると普通の病院とやっている事はあまり変わらないように思えた。成田さんや先生は炭酸浴の効果を絶賛されていたが、こ の時はまだまったく解からなかった。
それから1週間程過ぎた日昨日の総合回診で僕の24時間点滴(血液をサラサラにする薬へパリン)を始める事になる点滴を2時間我慢するのも嫌なのに24時間って聞いて驚いた。そして相変わらず炭酸浴をしていた。右足の壊死した部分が自然に取れてきた。炭酸欲と薬と点滴を繰り返す日々だった。それを、やりながら数多く有る検査を一つ一つ終らせていく。どの位検査が有るものかまったく解からなかったので藤井さんに聞いてみた。 すると紙に書いてきてくれたそれを見た僕は少し仰け反った。その内容とは
*骨髄細胞移植を受けるのに必要な検査
・レーザードプラー
・抹消循環(静脈)
・サーモグラフィー
・6/2612誘導心電図
・7/4 ホ ルダー心電図
・7/9 腹部エコー
・6/26 心臓エコー
・6/27 頭部/頸部 CT
・6/30 眼底検査
・7/9RI(薬物負荷心筋シンチ)
・7/1~7/3RI(ガリウムシンチ)
・7/11 胃内視鏡検査
・6/23 四肢 CT
・6/27 骨盤部レントゲン
・6/30 四肢 MR・抹消循環(動脈)
・7/10 抹消血流(薬物負荷)
・7/15 注腸検査
・7/2 胸部/腹部 CT
・7/7 下肢動脈造影(カテーテル検査)
とこれだけの検査をひと月掛けて検査する。僕の場合まだ研究段階でこれだけの検査を受けなければならなかったが、これからは恐らく半分位には内容が減ると思いますし勿論時間的にもだいぶん早くなると思われます。僕だけかもしれないが検査はどれもこれも苦労する物ばかりでした。仰向けにまっすぐ寝るのが僕にとっては苦痛だったため、殆んどの検査で先生方に迷惑を掛けてしまいました。

 

7月17日そしてようやく検査終了いよいよ手術の日がやってきたのだが、ここでハプニングが7月11日に受けた胃内視鏡検査が終った後喉に違和感が出始め、次の日、検温の時に体温を測ってみたところ37、2℃有った。まだ手術3日前だし治るだろうと思っていた。実際1日で良くなった。そして採血して見る事に、そして僕の知らない間に僕の手術のカンファレンスが開かれていたようで、その夜結果を報告しに田中先生と知久先生が暗い表情で僕の所に来てくれた。そして結果は2週間延期という事だった。僕はどうしてですか?と聞いてみた。だってもう熱も下がっているし、手術まで3日も有るのにと聞いてみた。すると先生は熱が下がっていても採血の結果はまだまだ正常値を遥かに上回っていた。今回は特に自分の体の骨髄を抜いてそれを移植する訳だから血液が出来るだけ正常な状態の時にしないと危険だとの事だった。西上先生、知久先生、田中先生、は必死に手術がおこなわれるように他の先生方を説得して下さったようなのですが、駄目だったそうです。それにしても2週間は辛かった。足の痛みが無いなら我慢して待っていられたが、まだ座薬を1日2回程度使っている位の痛さ(痛み1~7)を2週間も我慢するのは辛すぎた。しかし決まったものはどうしようもないし先生方も僕の安全を第一に考えての処置だったのでここはグッと我慢する事にした。

 

7月31日あっという間に2週間が過ぎた。この時右足の潰瘍部分は炭酸浴と内科的治療で完全に塞がった。一方左足も痛みは相変わらず有ったもののだいぶん不良な肉が落ち少し赤みが出てきた。しかし左足はこの位が限界だと思う。しかし炭酸浴でここまで良くなるとは正直思ってなかったので少し感動した。炭酸浴はセンターの中でも大人気で何時も 時間予約で都合のいい時間に炭酸浴を作って貰った。
そしていよいよ今度こそ手術本番手術の恐怖感などはまったく無く逆に楽しみでわくわくしていた。その理由はこの間に以前骨髄移植を受けた方の話や写真などを先生方や看護師の方々に聞いたり見たりしていたためであった。やはり良くなっている方々の経験談が一番何より希望がもてたからだった。だから今回僕はこの感想文を書こうと思いました。そして、こう言った話を聞き足の痛みから開放されるかもしれないという期待感からわくわくしていた。この手術が終ったら風呂にユックリつかり、足を思いっきり伸ばして寝たり、普通に歩いたり走ったりすると言う普通の人にしてみれば普通の事を僕は夢に出てくるほど願っていた。手術の痛みなんかよりもその後のこう言った楽しみの方が頭を支配して僕は手術が楽しみで仕方なかった。ちなみにこの日の足の状態は3位で相変わらず足を垂ら した状態で寝ていた。
朝早く母が明るい顔で病室に入って来た。今日の空は澄み切って、真夏なのに不思議なくらいすがすがしく、病院の周りの草木も青々と茂り沢山の蝉の鳴き声がまるで今日の手術の成功を祈ってくれているかのように大合唱していたと母は笑いながら言った。そして8時40分ストレッチャーに乗り手術室に向かった。母と藤井さんが見送る中僕は不謹慎にわくわくしていた。そして手術室に入った。中には色んな先生や看護師の方が居たのでビックリした。そして麻酔科の亀井先生に麻酔を打たれそれからは勿論覚えてない。
そして僕が気づいたのは肺に酸素を送るための管を抜かれている時だった。非常に苦しかったがそれからまた眠ってしまっていた。今度は目が覚めたのは聞き覚えの有る藤井さんや看護師の方それに田中先生に母の声だった。それから数時間経ち完全に目が覚めた。そこには母と藤井さんが居た。幸い足の痛みは麻酔が少し効いているのか余り痛くなかった。手術は思ったより早く午前9時に手術室に入り午後2時に終った。そして、西上先生から 手術後の説明を病室で聞いた。骨髄液を750ml採取してそれを分離機に掛け64mlの 純血の髄液(単核球)を足の血流が悪い部分に移植した。左の方が特に悪かったので左足 は膝から下の部分に100箇所右足は足の裏に10箇所移植したと、西上先生は話してくれた。 この手術は血液を大量に採るので輸血が必要と先生は手術前に話していた。輸血に対して母は非常に心配しているようだった。テレビや新聞の報道で騒がれている感染を恐れてい た為である。勿論母だけでなく僕も輸血に対しての不安は勿論あった。750mlもの血液を採ったのだから当然輸血をしたものだと思っていました。ところがビックリそれは何と輸血はしなかったという事でした。さすがに気分は優れなかったが後々の事を考えるとそれ は嬉しい事だった。母はそれを聞いて安心していたようだった。
そして、取り敢えず喉が渇いてしょうがなかったので、藤井さんにお茶を飲ませて貰った。それから母と2人になり、また喉が渇き何かすっぱい物が飲みたくなりグレープジュースを母に御願いして買ってきてもらった。それを一気に飲み干し少し落ちついた。担当が藤井さんから同じチームの川島さんに替わった。川島さんが検温で来たのでその時に酸素の管を取って貰おうと思って相談してみた。そしたら藤井さんが来て管を取って貰った。そしたら急に気分が悪くなり動けなくなった。その顔を見て藤井さんが先生を呼びに走った。先生は走って僕のところに来てくれた。そして先程たらふく飲んだグレープフルーツを戻してしまった。それから少し楽になったがあの時の藤井さんの対応にビックリした普段早歩き位で決して走ったりしなかった藤井さんが走ったからビックリした。その夜、田中先生が僕の部屋に来てくれて担当の交代を言われた。今までひと月半、担当だった熱心に世 話してくれた田中先生が別の病棟にいかれるのは非常に寂しい気がした。
だけど、引継ぎの先生が知久先生と聞き嬉しかった。知久先生は僕の担当ではない時も時間が有れば様子を見に来てくれていた。だから安心だった。そして田口先生も術後の僕の様子を見に来てくれた。

 

そして翌朝僕は余り身動き取れなかった。まだ気分悪い状態で移植を受けて膝下に90箇所の注射を打った部分がまだ痛かった。足の裏まで注射したので立つと痛かった。トイレに行くのも一苦労で点滴の棒にもたれながらユックリと行く事しか出来なかった。しかし一つだけ移植後もう既に変化が現れた点があった。それは足を伸ばして眠れたと言うことでした。この事を嬉しくて西上先生に話すと先生は笑いながら冗談っぽくこう言った。もう移植の効果が現れたのかな?と先生は冗談っぽく言われたが僕の中では移植した後から伸ばせるようになったので間違い無く移植の効果ではないかと思った。そして左足の痛みも手術前と比べると少しましになっていた。冷感が以前と余り変わらずそれだけが少し心 配では有ったが、良くなっている事に間違いなかった。
そして次の日トイレくらいなら何とかスムーズに行けるようになった。その夜リハビリがてら僕の前の日に手術した患者さんの所に行ってみた。この患者さんには大変良くして頂いたし何より一緒にいると楽しかった。平均年齢75歳のこの病棟でこの患者さんは59歳だった。僕のお父さんのような存在だった。他にも良くして頂いた患者さんは大勢いた。それから5日後だいぶんスムーズに歩けるようにもなり病室が個室から大部屋に移動する事となった。部屋を移る前やっとあの嫌だった24時間点滴を終る事が出来た。一月付けた状態が続いたので外れた時の開放感は最高だった。
そして今度移動した部屋は以前、南側だったが今度は北側の一番角の部屋でその部屋の窓際だった。南と違って景色がかなり綺麗に広がっていた。
そして数日後足の痛みもだいぶん治まり、座薬も使わなくても我慢できる程度の痛みになり痛いときでも4以上はなかった。僕の中では5以上は座薬を使いたくなるレベルで4位なら何とか我慢できた。そして師長の気使いで僕の部屋は数日だけでは有ったが若者部屋へ変えてくれたりもして結構毎日楽しく入院生活を送る事が出来たしかし、出会いもあれば別れも有るって感じで、今までに15人との患者との別れを見送ってきた本当に別れが辛かった患者さんもいた。そんなこんなで手術から2週間後に抹消循環、サーモグラフィー、レーザードプラー、エコー、四肢の酸素量を測る検査をした。検査結果は術前と余り変わらなかった。気持ち右足が良くなったと先生は言ってくれた。左は変わらなかった。この時の一番痛いときの痛みは3位だった。

 

そして更に2週間後術後4週間目2週間目の検査と同様の検査とプラス血管造影(カテーテル)をする事になった。検査結果は2週間目の時より気持ち良い感じがするって位で殆んど変わってないと言う方が正解だった。痛みは痛い時でも1位で潰瘍部分も殆んどふさがっていた。移植ってホント不思議だ検査結果ではどこに変化があるのか解からないのに潰瘍はどんどん良くなっていく先生も僕が4例目だけど不思議な物だよねーとどの先生も 看護師の方も言っていた一番驚いているのは本人だとは思うが。
そしてボチボチ退院の話なんかも出てきた。退院の話を聞いた時感動して鳥肌が立っていた。この日をどんなに待ちわびていた事だろうか、けどしかし何かわびしい気もしていた。退院と言う事はここの先生や看護師そして患者との別れを意味するからである。そしていよいよ退院の日が知久先生より告げられた。9月1日と言う事であった。しかし母の仕事 の都合で金曜に先生に無理を言って外泊退院を許可して貰った。
そしてその事を知久先生から以前担当して頂いた田中先生伝えて貰うと金曜の夜に忙しい間を縫って僕の所に来てくれた。田中先生は一つ僕が質問すると1から10まで詳しく熱心に教えてくれた。田中先生はそう言う先生だった。田中先生に感謝と別れを言って僕は また、わびしくなった。そして退院の日この日は最後の検査で四肢の MR の検査が残って いた。それを終えて病室に戻ると母が迎えに来てくれていた。そして本当の最後の検査で何メートル歩けるかテストして見る事にした。そして歩いてみた知久先生も一緒に歩いて くれた。意外と歩けないもので200M 位歩いたら左足が疲れてきた。それを隣で一緒に 歩いている先生に言うとそれじゃあ戻って血流見てみようかと言う事で足の血圧を測ることにすると歩く前より血流がよくなっていると言う事だった。運動する事によって逆に血流が悪くなると退院も問題になってくるが、良くなっていたので先生に、もう大丈夫だよと言われた。
そしていよいよ退院する事にした。母が先生方に挨拶して帰りたいと言うことで知久先生に相談した所西上先生は外来だけど外来の所に行けば遭えると思うよ、と言う事で帰りに知久先生も一緒に西上先生の所に付いて来てくれる事になった。しかし、残念な事が一つ起こったそれは田口先生だった何とこの日出張だった。僕にとっても母にとってもこれを聞いた時は非常に残念だった。田口先生が居なかったら今の僕は無いからである。最悪指を切断していたのかもしれない、国立循環器病センターに入院させて頂けたのも成田会長と田口先生の計らいが有ったからなのだ。ここに来る前、循環器センターになかなか行けず母に怒りをぶつけていた自分は情けなかった。今考えるとあんなに早く入院させて頂いた事を感謝しなくてはいけない。そう言う事も有り、退院の挨拶が出来なかったのには非常に残念だった。
そして荷物もまとめて遂に病室を出ることにお世話になった患者さんや看護師さん達に半分悲しく半分嬉しい別れを告げてエレベーターを待っていると担当の藤井さんが間に合っ た、とか言って僕を走って見送りに着てくれた。手術前僕が本当に良くして頂いた患者さんとの別れを辛い辛いって藤井さんに愚痴っていたら藤井さんは僕が退院する時は見送ってあげるからと言っていた事を思い出し本当に来てくれたと感動していた。僕が居た病棟の看護師さん方にも大変素晴らしい看護をして頂きました。その中でも、やはり担当と言う事もあるのですが藤井さんは、もう10年目になる看護師でもベテランで藤井さんが担当の時は安心だし何でも話しやすいし、もの凄く気が回る看護師で僕にとって藤井さんの存在はかなり大きなものでした。
そして知久先生と母とエレベーターに乗り6階西病棟を後にした。2階で下りて西上先生の外来の所で、先生を待つ事にした。1~2分後わざわざ出てきてくれた。西上先生は全 てにおいてやさしい先生であり、医長でもあり僕は先生が来てくれる度に緊張していた。そう言うオーラを先生は常に持っている先生だ。
そして、最後に本当に最初から最後まで面倒見てくれた知久先生との別れだった。知久先生は、患者の話をちゃんと聞いてくれる先生でそして医者と言う地位でありながらも僕と友達のように接してくれる優しく頼れる先生でした。そして先生と2階のエスカレーターで握手をして1階に下りた。
そして病院を出た。
外は暑かった。
2月半ぶりに外に出た感想は嬉しいというより悲しいものだった。

 

そして9月19日現在タバコを止めて4ヶ月もう吸いたいと思う事は無い。 御蔭様で今は、100M位歩くと脹脛(フクラハギ)の所がまだ痛みますが足の潰瘍も完全にふさがり冷感も殆んどしなくなりました。

 

この病気をここまで良くしてくれたのは皆様の御蔭です。
会長の成田さんこんなに良い病院を紹介して頂いて有難う御座いました。
そして田口先生、西上先生、知久先生、田中先生、他多数の先生方それに師長を初め藤井 さん他看護師の皆様本当に有難う御座いました。
そして毎週京都から足を運んでくれた叔父さんや親戚一同有難う御座いました。
そして1年間この苦しみを共にしてきた母に心から感謝します。

 

今この病気に苦しんでいる人達も諦めず頑張って下さい。
きっと僕のように素晴らしい先生や看護師さん方に巡り合う事だと思っています。

 

本当に貴重な体験をさせて頂きました。これからの残りの人生、頑張って生きていきます。

 

平成15年9月19日

 

鴨井 大昌(28歳)

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